誰が正義、誰が悪かを考える

西部劇は20世紀に初頭から末期寸前頃まで娯楽大衆として愛されて続けていました。それは当たり前のように受け入れられ、それは何事もなく人々に当然のごとく浸透していった。ですが現在までに西部劇と称される映画、それこそかつて放送されていたような内容を放送する作品は出てきていない。『荒野は辛いよ~アリゾナより愛を込めて~』のようなコメディ映画ならいざ知らず、シリアスな世界観で描かれる名作と表現された捜索者やワイルドパンチなどといった作品に似た西部劇は登場してきていない。

どうしてか、それはこの作品で『誰が正義と称されているのか』、また『誰が悪とされているのか』を考えてくれば見えてくるでしょう。そう、これまで紹介してきた名作の数々はアメリカ映画史においては確かに歴史的な観点でいうなら至高の芸術作品といえるものだろう。ですが同時にそれらの作品のせいで言われ用のない迫害を受け続けた人もいる事実を受け止める必要がある。アメリカという国が今現在でも抱えている、白人と黒人という『人種問題』というナーバスな問題に触れる事になるのです。

白人と黒人

アメリカの歴史を少し読みといてみる、最初に出てくるのはヨーロッパ諸国が行った大航海時代が出てくるでしょう。その中で長い旅路の果てに見つけた異郷の地、フロンティアとも称されるアメリカが発見されたのは中世の頃だった。ちなみにだが、この頃のヨーロッパに言わせれば日本も相当未知の土地であり、極東などとも言われているのを知っている人もいるでしょう。世界の歴史からすればヨーロッパの歴史が世界の中心であり、彼らの価値基準で世界は廻っていた。

そして見つけた異邦の地においてヨーロッパは植民地とするべき活動していく。当然アメリカには先住民族がいた、インディアンと呼ばれる存在は当時のヨーロッパに住まう人々にとっては、家畜であり、奴隷であり、部品くらいにしか見なされていなかった。そうして先住民族は否応なしに迫害され、白人たちに隷属される立場へと貶められてしまいます。そこから独立となるアメリカの時代が訪れて、少しはまともになるかと思われたかもしれない。ですが実際に肌の色が違うというだけで、黒人は皆差別の対象となり、社会においていらない存在とばかりに扱われていました。

どこまで言っても白人優位の時代が続いていたが、そんな中で白人や黒人といった人種に関係のない国を作りたいと訴えたのが『エイブラハム・リンカーン』という存在に行き当たります。彼のした所業により黒人たちの人権が認められるようになりましたが、後にリンカーンは暗殺されてしまい、時代は暗礁へと乗り上げていった。20世紀になってからも暗黒時代は続いていき、やがて西部劇が作られるようになる20世紀が到来してきます。

ですがその映画はあくまで『白人が楽しむための娯楽』でしかなく、黒人の人々にすれば自分たちはアメリカという国において排他されるべき存在であるとばかりに象徴されてしまいかねないものだった。

ヒーローは白人、悪党は黒人

大抵の西部劇で、白人の俳優が主役を勤めています。黒人の主役というのはいません、まだ人権という柱がしっかりと固定されていなかったこともあるため、映画の中身も相当やりたい放題だった。先ほど紹介した創作者を始めとした作品は確かに名作だ、だがよくよく考えてみると1つの図式が当たり前のように定義されている事実に気づくことが出来る。

それは、

『白人=正義、黒人=悪』

というものだ。

誰が決めたわけではない、そしてそれは当たり前のように埋め込まれた情報として表現したのかもしれない。悪意があったかどうかはこの際問題ではない、むしろそれなくして西部劇というジャンルは登場しなかったと考えたほうが自然なくらいだ。

そんな作品を見て、スッキリとした気分で映画を見終えて出てこれるのは白人か、あるいはアジア圏の黄色人種である人々くらいでしょう。黒人にすれば、自分たちがまるで世界という社会において悪行しかなさない怪物の様に描かれている姿を見せられるのだから、不快を通り越して絶望しかない。

人種差別という問題

ここまで言えば分かると思いますが、西部劇という映画は現在進行形でアメリカを始めとした世界で問題となっている『人種差別』という問題を浮き彫りにしているのです。映画だから関係ないという話ではない、映画という表現を用いているからこそ注意しなければならないのです。それこそ、何も知らないで与えられた情報を鵜呑してしまう子供という存在が一番危うく、そして決して文言ってはいけない問題へと足を一歩と近づけてしまうからだ。