無茶苦茶な定義

人種差別という問題は日本人も無関係ではないでしょう。それこそ近隣諸国となっている韓国や北朝鮮、果ては中国といった国々に住まう人は日本人と見比べても大きな違いは存在していない。ですが中には彼らと同じだなどと言うと、毛ほどにも思いたくもないと嫌悪感を剥き出しにする人は多いはずです。日本人だけでなく、韓国や北朝鮮、中国の人々も同様だ。自分たちは日本人みたいな低俗な連中とは違うんだと自負している、そんな人は山ほどいるはず。人種という問題は肌の色で考えられますが、そういう視点ではアジア圏の黄色人種も白人にすれば無粋な民族と見なされている事実がある。

実際、そういったことを当然ばりにされて不快感を表した人もいるが、しょうがないという一面もある。ですがそれで片付けてはいけない問題であり、なんとかして解決しようとしてもすることが出来ず、飽和状態となってしまっている問題とも言えるのです。

西部劇の映画にしてもそうです、この作品はエンターテインメント作品としては最高傑作とまで称される映画作品も登場した。その中には歴史に名を残すとまで言われる名作も登場しています。だがそんな作品により人権を蔑ろにされ、人生を破綻させられたという人もいるかも知れないのだ。西部劇という作品によって表現される白人が正義、黒人が悪といった、今だからこそ信じられない定義を当然のように観覧していた人すべてが受け止めていたのだから、ある意味洗脳と言えるでしょう。

解決することのない人種差別

人種差別は今でこそしてはいけないと言われていることですが、それでも無くなる気配はありません。そこには一種のプライドがあり、優位な存在であるといった自負も介在しているのかもしれません。それが非常に滑稽であるかは言うまでもないでしょう。ですが西部劇が黄金期を誇っていた時代は世界大戦に揺れる時代でありながらも、白人と黒人の溝が埋まらず国内でも二分されるほどの社会問題として発展するまでに事態は悪化するだけだった。

そんな中で互いを和解させるために登場したのが、『マーティン・ルーサー・キング・ジュニア』、通称キング牧師の存在です。黒人とあり、黒人としての人権を保護を求めながらも、将来的に白人や黒人といった人種に関係のない、平和な国を作りたいと願った彼の思いに多くの黒人が賛同し、それは白人の心さえも揺るがしました。リンカーンの後を継ぐ様に現れたキング牧師、ですがそんな名演説から間もない頃、リンカーンと同じく暗殺されてしまっている。それだけキング牧師という存在が大きかったこと、また白人の人にすれば彼ほど脅威な存在はいないということを証明してもいた。

こうした経緯もあってから、1960年以降になると少しずつ抗議団体も登場して西部劇という映画の在り方に対しての批判が強まっていく、もはや娯楽だからと通じる世の中ではなくなり、西部劇という映画・ドラマは製作されることはほとんどなくなっていったのです。だからといって問題が根絶されたわけではないから、皮肉なものだ。

人種差別する人の傾向

少し人種差別をする人について考えてみたい。その人はどうして他国の民族を毛嫌いするのかと考えてみる、ですが理由などを問いただしてもその人が何かをしたわけではなく、また知り合いといったほどのものでもない。それこそ道行く名も知らない他人のことを嫌悪するようなもので、理由という理由は実際のところ存在していないのです。では何故差別するのか、それはそうすることが『当たり前であり、正義である』と信じているからだと分析している人がいる。

これについては共感を得る人も多いだろう、また人種という枠ではない社会という縮図においてもこうした距離感を持ってして、他者を排他しようとする動きは当たり前のようにあるからだ。それこそ些細な理由ばかりです、単純に見た目が気に食わないから、顔が気持ち悪いから、自分よりも目立っているから、楽しそうに毎日を過ごしているから、などともはや理由にすらならない八つ当たりに近い感情から差別が始まり、それがいじめへとつながっていく。

要するに、自分の領域外にいる人間を徹底的に排除するのは当たり前であり、自分の価値基準を原則としてそぐわない人間がいたら無くそうとするのが正義である、そう思い込んでいるのだ。西部劇においてもそう、悪として表現されている黒人の姿を見て子供が思うことはそれだ。白人である自分たちは絶対優位の存在であり、黒人たちは卑下されるべき卑しい民族なんだと思い込んでしまうのだ。嘘ではなく、冗談でもなく、真実としてそうした経験をした人も多いのです。

西部劇という作品を通じて黒人に対して嫌悪感を持ったとしよう、だからといって会ったこともない、見たこともない人間に対して暴行や暴言が許されるものではない。ですが社会にはそうした行為が許される、自分の行いは正しいものであるのだと思い込んでいる人がいる。人種差別とは、そうしたところから来ていると考えていいでしょう。そこには人間に対しての尊重はなく、敬意もありません。ただそうすることこそ、社会で認められていると信じきっている。