西部劇とは違えど

西部劇の終焉は人種差別問題、白人と黒人という溝を無くすためにも必要なことだとする動きが世論を通じて大きくなり、メディアとしても積極的な姿勢を全面的に出すしかなかった。作品を生み出した監督などは後世誇るべき存在として祀られているのかもしれません、ですが彼らの人格がきちんと公平な価値観を持っていたかというのは定かではありません。中には白人であることを誇りにし、好んで起用する役者にも一種の法則がある人もいる。

例えば捜索者の監督である『ジョン・フォード氏』だが、彼はアイルランド系の移民であり、白人です。そんなフォード氏は自身がアイルランド系の民族であることに対して強いこだわりを持っており、そして彼が好んで役者とし適用していたのもアイルランド系の白人だったのです。代表的なのは捜索者で主演を飾った『ジョン・ウェイン』もまた、フォード氏と同じアイルランド系の白人だったことから来ているという。

こう言われると映画に対しても見方が変わってくる、作中において表現される黒人たちに対する侮蔑さは監督自身から来ているものであり、白人としてのプライドすら感じられてきてしまう。名作と言われた作品も、そういった色があると考えたら見方も変わってきてしまいそうだ。

こうした差別という話についてだが、日本人も例外ではないことは先ほど話しました。ですが実際問題として、きちんと日本国籍を有しており、日本人としての意識もある人が間違えて逮捕されてしまうという、そんな問題も起こっているのです。そこから見えてくるのは、やはり根本的に人種差別という問題が絡んできているのです。

思い込みの怖さ

逮捕されてしまった人は実際知らないだけで事例は非常に多いのではないだろうか、そう思える。どうしてそんなことが起きるのだろう。日本人が日本人ではない外国人として見なされて逮捕されるなど前代未聞だが、案外そうでもないのです。誰でも経験はあるでしょう、言われようのない誤解によって変なことになってしまったという状況に陥った事がある人は。筆者もそういう経験がある、仕事をする上で必要なことだからと教えた内容を、他の人から『嘘を教えられているよ』と言われた経験をしたことがある。その問題はすぐさま責任者の人の弁護により誤解は解けたが、不快感を抱いた。すぐに周囲の人に対する視線や印象は悪いものとなったが、ここで出てくるのが『思い込み』というものだ。

日本人が外国人と勘違いして逮捕されるケースもやはり思い込みから来ているのです。ある人のケースで話すと、空港から入国管理局へと進む際に日本人カウンターへと向かったがそこをせき止められてしまう。付け加えるときちんと国籍を有しており、決して不法入国を目的とした人ではありません。そして止めたのは紛れも無い入国管理局に勤務している法務職員だったのです。一度止められたものの、それでも進もうとする動きを遮るように違うと罵られる始末、それでも日本人としての意識があるその人が通ろうとした時には取り押さえられるという事態にまで発展したというのです。

そう、この時違うとせき止めてきた職員にすればその人は『日本人ではない』という思い込みがあったからだ。俄然と通ろうとしたことにも問題はあるものの、ここで職員がきちんと身分を確認するための作業をしていれば問題は大きくならなかったはず。喧嘩両成敗とまではいかないものの、どちらにも非があった部分は否めない。

ですがどうして間違えられてしまったのかと考えると、そこが思い込みという問題から発展した差別へと繋がっていくのです。

肌の色

日本人っぽく見えない人はよくいる、ですが見た目で判断出来るわけがない。それは分かりきった事実だが、それでも日本人っぽくないと言われてしまう人がどうしているのか。その原因となっているのも、やはり『肌の色』が関係していた。法務職員に取り押さえられた人もそう、この人もまた肌の色という見た目だけで外国人と見なされてしまい、とんだ事態に巻き込まれてしまう。職員にすればきちんと仕事をしているのかもしれない、ですが何事も順番は存在している。確認する時間がそんなに惜しいのか、それとも取り押さえなければ逃げられてしまうのではないか、そういった危険性も考慮しての行動だったのだろう、けれど正しいやり方であったとは言いがたい。

肌の色が違うだけ、それだけで日本人ではないと決めつけられてしまうのです。国籍を持っていればアイデンティティは生まれるものですが、それが日本人である証拠として即効性を有していない。背景事情を説明できなければ、公的機関は納得しない。頭が硬いと感じるかもしれない、それだけ真面目なのだろう。ただ度が過ぎて凝り固まった偏見が根付いているのもある意味日本人の特徴といえるのかもしれない。

西部劇の映画から何を学ぶか

このように日本人にしてもそうだが、西部劇という映画から見えてくる決して目を逸らしてはならない人種差別という問題がどの作品にも根付いているのです。そこに平等も公平もなく、白人や黒人も関係ないといった思想も存在しない、凝縮されすぎて膿さえ出来ているほどの意識がある。そこから学ぶべきものはなにか、何を理解しなければならないのか、考えなくてはいけないことがたくさんあります。

西部劇という作品が現在ではある意味タブー化されたジャンルになってしまったこと、その事情は複雑だ。ただ人種という壁がもしも将来的に無くなりさえすれば、西部劇という作品に対しての見方も変わってくるかもしれません。そんな日がいつ来るか誰にも分からないが、人類の命題であることは間違いない。